
明治・大正・昭和初期を生きた快僧、渡辺海旭の物語。 2011年6月に発行した著者の『紫雲の人、渡辺海旭 壺中に月を求めて』528ページを、938ページに大きく改稿したほぼ新作。 この新刊にあたり、タイトルを『快僧渡辺海旭』としました。 「快」は破天荒で豪快で、親しみやすさがあり、世俗に流されない、というもの。 海旭は浄土宗の僧であり、なおかつ社会事業家でもあり、教育家でもあり、アジア革命の支援もしています。その活躍の幅は分野を超えて多岐にわたっています。しかし、その名は歴史の表舞台には登場していない、いわば知る人ぞ知る人物でした。 しかも、著者によるとその評価はいまだ定まらず、だからこそ海旭は「未来の傑物」と評します。 司馬遼太郎は「二十世紀の闇と光を描くとしたら不可欠の人物」と語っています。残念ながら、司馬が歴史小説にするための資料や調査は間に合わなかったようです。 かつて日本には、海旭のように魅力的な人物がまだまだいたんですね。現代に目をうつすと、彼らのようにスケールのでかい人間はいるのだろうか、果たしてそれは誰なのか、そんなこと考えてしまいます。 明治、大正、昭和とわたった海旭六十数年の人生は、日本が明治維新という歴史の転換点を経て社会のありようが大きく変動するまっただ中にありました。海旭は仏門に学び、十年間ドイツに留学します。帰国後、下級労働者を救済する「無料職業紹介所および宿泊所」を開設したり、教育家としても、芝中・高校の校長を務め、いくつもの学校の設立・運営にかかわり、と、著者が言うように「ひとつの器におさまりきらない」海旭は、さまざまな活動を結実させていきます。将来を見据えていま必要なこと、を見抜く力、判断力はなみのものではありません。 そんな例として、心に残るエピソードのひとつにこんな話があります。 奇しくも、明治29年6月「明治三陸大地震」が起こり、大津波が東東北沿岸を襲いました。そのとき、「浄土教報」主筆であった海旭は、すぐさまこんな呼びかけ文を掲載します。 1)各寺に義援金箱を設置し、被害地の一助に充てよ。 2)浄土宗学本校・支校生は、休みに入るので、罹災者を慰問せよ。 3)尼衆諸姉は看護婦となり、現地に赴け。 4)諸師兄が詠み終えた新聞雑誌小説を現地に送れ。 5)父母を失った小児を寺で救済せよ。救護の第一位にすべきものだ。 6)一時の救済に終わってはならない。世の冷熱に順わず、永久の忍耐と熱誠をもってあたれ。 このとき、海旭24歳。その後、ドイツ留学へと旅立ちます。 埋もれていた「傑物」渡辺海旭の「物語」、興味をもっていただけたなら、ぜひお手にとってみてください。
発売まであと31日
7,200円(税込・書誌情報提供:openBD)








